大東京軍コレクション
昭和11年大東京軍が誕生する。親会社は(新愛知新聞社系)の国民新聞社(現、東京新聞社)である。
結論を言うと、国民新聞社は直ぐにこの球団を手放すこととなる。
翌年の昭和12年の夏にライオン軍と名称が変更され、球団そのものも田村駒に譲渡される。
新愛知新聞社は名古屋軍(現中日ドラゴンズ)を所有しており、実質的に2つの球団を所有するメリットは考えられない。
そもそも、今後先行き不透明な職業野球の球団運営は一球団だけでもリスクがある。
っということで僅か1年半の期間しか存在しなかった大東京軍、
しかし数多くの方々の努力により合併などあったが、現在の横浜ベイスターズが存在するのである。
大東京軍初試合
〜昭和11年3月21日〜
大東京軍の初試合だから、本来なら本拠地の東京で試合を実施するべきであるが、開催場所は名古屋の鳴海球場。
先にも述べたが、親会社が新愛知新聞社系列(現中日新聞社)であったため、親会社主催で親会社が所有する名古屋軍と対戦させ、
親会社の地元である名古屋の球場で開催となったのである。
メインは名古屋軍で、そのついでに大東京軍を所有していることが、チケットを見ているだけで分かってしまします。
実はこの日は野球界にとって重要な試合でして、現存するプロ野球球団同士の初の試合なんです。
これより以前に、プロ野球球団同士の試合は何試合かありました。
芝浦協会と天勝野球団。と、東京巨人軍と名古屋金鯱軍が対戦しておりました。
しかし、現存する球団は東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)のみなんです。
いつまでも、この日が現存するプロ野球球団同士の初の試合であっていて欲しいものです。
東京球場(上井草球場)誕生
〜1936(昭和11)年8月30日〜
東京球場(上井草球場)完成記念試合この球場もなんとなく寂しさが伝わってくる球場である。
完成時(昭和11年)、東京に大きな球場が少なかった。州崎球場は、満潮時グランドに海水がなだれ込むような球場で、
戸塚球場は本来、早稲田大学の練習場である。都心から少し離れるが、西武沿線上に建設されたこともあり職業野球待望の新球場であった。
しかし、翌昭和12年に後楽園球場が完成し開催試合数は激減する。
そして、1959年東京都は水道の貯水池を建設するため球場ひっそりと取り壊される運命でした。 なんだかなぁ〜。
そして、ライオン軍が誕生する。
「大東京軍」と記載されているチケットは非常に少ない!
確かに、プロ野球結成当時は、変則ダブルヘッダー(ひとつの球場で、2試合4チームが対戦)が多く日付と場所のみが記載されたチケットが沢山あった。しかし、この「大東京軍」に関しては特に少ないのである。「資金なし、人気なし、やる気なし」という三重苦である。その結果、僅か1年半の短い命であった。チケットの発行枚数の少なさが、大東京軍を端的に象徴している。