石丸進一コレクション
〜君は石丸進一を知っているか?〜
悲運にも日本プロ野球史上唯一、特攻隊により戦死した伝説のピッチャー。




この前、牛島秀彦さんの『消えた春』を読ませていただきました。
イヤー、なかなかイイ読み物でした。

本来なら、その本の内容を説明すべきなのかもしれないが…
あえてしません。
何故なら、是非とも読んでただきたいからです。

感想も書くつもりでしたが…
こちらもやめました。何故なら多分この本を読めば一人一人感じ方は多様なはず。
私個人の気持ちをだらだらと書くのも無粋だと感じたからです。


しかし、
私はどちらかといえばプロ野球時代の話がもっとあると思っていたのが以外とさらりとしか書かれていなかったので少し残念でした。
『では、自分で調べてみるか、そしてチケットを通じて石丸氏の生きた時代を表現できれば…』
っと思った次第であります。



石丸進一、初登板初勝利
〜1942年4月1日〜

初登板で初勝利なんですからやはり、いいピッチャーだったんでしょうなぁ〜。
しかも、2安打完封ですからね。
並みのルーキーではないですな。


そして、この年は17勝19敗という新人ではなかなか出せない記録である。
ただし、現在17勝といえば最多勝候補間違いなしであるが、当時はそうでもない。
この年の最多勝は大洋の野口二郎の40勝17敗である。
2位以下は…
朝日 林 32勝
巨人 須田 26勝
阪神 若林 26勝
巨人 広瀬 21勝
大和 石原 20勝
阪急 森 19勝
阪急 笠松 17勝


ただし、当時もの凄く弱小球団だった名古屋軍でこれだけの数字を残せたのは立派である。
名古屋軍は105試合で39しか勝っていない。
現在で言えば、2003年の横浜で17勝するほど、とてつもなく難しい記録なのである。








石丸進一、戦中最後のノーヒットノーラン
〜1943(昭和18)年10月12日〜

この年のノーヒットノーランの数は5月2日阪急、天保。5月22日巨人、藤本。5月26日南海、別所。
そして石丸をあわして4人もいる。
何故、こんなに多いのだろう?


この年の最優勝防御率は巨人の藤本の0.73 (プロ最高記録)
首位打者の打率は巨人の呉の0.300 (プロワースト2位)

上記の成績を見れば分かると思うがもの凄く投手の成績が良すぎる。
これには訳がありまして…

当時は物資が極端に不足し、良質のボールが手に入らなかったのである。
仕方なく、反発力の弱いボールを使用したためこんな状態になったのです。

もちろん、その原因は戦争の長期化によるのは言うまでもありません…







石丸進一最後の勝利
〜1943(昭和18)年11月6日〜

ちなみにこの日は、西鉄という球団が消滅した日でもある。
(消滅と書いたが球団名が変更になったわけではない、球団その物が消滅したことを意味する。)


1年中同じデザインなのや印刷の手の抜き方よりも紙質が非常に悪いのに驚きを感じてしまいます。
保存状態が悪い紙を持ったとき普通は『破れないかな?』っという感じになるが、
このチケットは『崩れ落ちないかな?』っというほど劣悪です。

このチケットを見ているだけで野球に対する情熱や執着や愛というものが微塵にも感じることができない
心の中に隙間風が吹き荒れるほどの、非常に殺伐としたものを抱いてしまう。

『こんなチケット発行した時代なら、バットやボールの質がかなり劣悪な状態であるのが実感でき、
かつ
人の命を虫けらのように扱ったような時代なんだなぁ〜。』
っと感じざる得ない…

野球ができると言うことは本当に素晴らしく幸せであることに気付かせくれる。
1枚のチケットを見ているだけで色々な気持ちが湧き立ってしまう非常に珍しいチケットである。












↓のチケットは2005年9月に更新しました。


石丸進一最後の公式戦登板。
〜1943(昭和18)年11月7日〜

以前、11月6日は最後の勝利なのは確かなのですが、最後の登板では6日でなく7日でした。
すみませんね、間違えてしまって。

石丸進一 4回14打席4安打2振0球0自責点


しかし、この日は公式戦でいろんな人の最後の試合でして、

タイガースの景浦将も最後の試合で、5打数2安打0打点0振0球

タイガースの三輪投手も最後の登板でして、12回53打席4安打12振0自責点


そして、3人とも戦地で命をなくされております。

この日亡くなられた方々はどういう気持ちで試合をしていたのでしょう?

たぶん、私達では想像もつかない気持ちだったんでしょう。

いや、このような気持ちにならないような世の中に、私達が努力しなければいけないのかもしれませんね。




ちなみに、進一さんのお兄さんである石丸藤吉さんもこの日が最後の公式戦でした。







そして…

1945(昭和20)年5月11日
片道分の燃料を乗せて特攻機が飛び立ち…
享年22歳の若さであった。














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