樺太庁鉄道と野球

東京新橋の鉄道歴史展示室にて
2015年4月7日〜7月20日





〜一枚のチケットから樺太の球場を想う〜

かつて、樺太に現在のJR(当時鉄道省)の前身とも言える鉄道路線や野球場があったことをご存じだろうか。
庁鉄(正式名称:樺太庁鉄道。昭和18年に鉄道省に移管)が野球普及に一助したことを知る人は、数少ないだろう。
このチケットは、樺太における鉄道と野球の関係を読み解くことが出来る数少ない生き証人である。

大正時代後期の新聞を読むと、樺太で野球はすでにメジャーなスポーツになっており、
「(樺太)全島野球大会」などの有名な野球大会の試合内容や結果が大きく掲載されていた。
昭和772日に豊原中央球場にて豊原野球聯盟が北海道の強豪チームである旭川鉄道倶楽部を招き、庁鉄と試合が開催された。
試合結果は157で旭川鉄道倶楽部が勝利している。
得点差は8点あるものの、7得点していることから、庁鉄軍は強豪相手に善戦し、試合は大変盛り上がったのではないかと当時の様子を想像する。

その後、旭川鉄道倶楽部のみならず、函館オーシャンや札幌鉄道倶楽部といった強豪チームを招き、庁鉄など樺太の各チームと対戦
昭和997日には総面積7千坪、総工費1万5千円の豊原公園野球場が完成
昭和138月にはプロ野球球団のセネタース対イーグルス(ともに戦時中に解散)戦が豊原公園野球場にて開催されるなど、樺太野球界の発展が窺い知れる。
庁鉄がいつから野球との関わりを持つようになったかは、詳しくは分かっていない。
但し、大正時代に応援歌を作成し、いち早く専用のグランドを所有し、北海道に遠征し試合を実施するなど、野球というスポーツに対して大変熱心であったことは間違いない。
また、昭和9年に都市対抗野球の北海道樺太地区予選において全豊原軍という樺太選抜チームを編成時、
20名の内半数以上の13名が庁鉄軍の選手であった5という事実からも、庁鉄が社を挙げて野球が出来る環境を整えた分、実力も伴っていたことが分かる。
最も樺太野球界を牽引していたチームと言って過言ではない。

当時、樺太でこれほど野球が盛んであった史実はあまり語られないが、これは、194589日にソ連軍は突如日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太に侵入したことが大きな原因であろう。
現在、サハリンではロシア人による地域リーグが存在し、野球文化が細々とではあるものの続いている。
また、稚内市は過去何年かにわたり野球指導員をサハリンへ派遣し技術指導を行っている。
あの頃盛んだった樺太の野球文化は、まだ途切れていない。
筆者は野球チケットを30年以上収集し数千点のチケットに触れてきたが、樺太関連チケットはこの一枚だけである。
このチケットが今存在するのは、野球を愛する名も無き誰かが命をかけて樺太野球の存在を伝えたいと苦心した結果かもしれない。
いずれ豊原の地を訪れ、草木生い茂るかつての球場跡地に立ち、最北の野球王国に想いを馳せてみたいと考えている。








ホームに戻る




管理人からのお願い