プロ野球誕生前夜
〜すべてはこの試合から始まった〜


明治時代の初期に西洋の遊戯、『野球』が伝来され…
その後、ドンドン野球競技者数が増えていき、明治後期になると大学野球が開催され、大正時代には高校野球が開催され…

昭和になると野球っという言葉を知らない方は殆ど居ないくらいのエンターテーメントになっていきました。
(相撲とかにはもちろん負けておりましたが…)


…で
当時2大新聞社といえば、
毎日と朝日新聞社。

朝日新聞社は夏の高校野球を主催し自社新聞の購買に一役かっており、
また、毎日新聞社も、春の選抜高校野球と社会人野球を主催しておりました。

当時、販売部数があまり多くなかった読売新聞社は、その状況を指をくわえて見ているだけにもいかず、
何か起死回生の一打を考えないわけがございません。

当時の社長、正力松太郎さんが考えたのは…
当時誰も実現する事ができなかったアメリカメジャーリーグ選抜チームを作って来日させる事でした。





読売新聞社主催
第一回日米野球

〜1931年11月10日〜

宮城県仙台市の八木山球場でも行われました。
ちなみに、 どうやらこの球場は現在無いようです。
下記のURLでは八木山球場跡地にベーブルースの像を建てようとしているようです。
http://www.isn.ne.jp/~sendado/babe.html(ベーブルースの像を建てる会HP)
現在は動物公園になっているみたいですね。







文明開花って言葉がまだ有ったようなデザインですネ。

ちなみに横浜公園球場は後の横浜ゲーリック球場や横浜平和公園球場等の名称に変更された後、
取り壊され現在の横浜スタジアムへなりました








時の総理大臣が歓迎パーティーを開くなど大盛況振りで、野球の試合をするっと言うよりも、
日米親善の役割まで果すほどだったそうです。

後に殿堂入りするプレイヤーが7人もいるくらいだから騒ぎが起こるのも当たり前なのかもしれない。



興行的にも大成功…っといいたいところだが、実は第一回の儲けは殆どアメリカ側に渡ったのでした。

逆を言えば、そうでもしなければ来なかったのであろう。
ただし、それを承知で日米野球を企画した正力さんは偉い!

何故なら、試合の戦況を詳しく掲載できたから多く販売できただけでなく。
このようなとてつもなく素晴らしい催しものを実現できた読売新聞社を世間に知らしめることができたからである。









そして三年が経ち…











読売新聞社主催
第2回日米野球




〜読売巨人軍初陣試合〜
〜1934年11月5日〜

昭和9年11月4日に日米野球が開催された。
ただし、11月4日はアメリカ選抜対東京倶楽部である。
東京倶楽部は六大学OBを主体とする実業団チームである。

そして次の日(11月5日)以降が全日本と対戦するのである。

実は、全日本といっても日本中の良い選手をかき集めた訳ではなかったのであった。
何故なら、昭和7年に文部省の統制令で『学生選手が職業野球団との試合を禁止』したのである。

当時プロ選手はあまりいいイメージではなかったようである。


『だったら、新たにプロの球団を作ろう!日本中のイイ選手をかき集めて!』

そして、2ヶ月も経たないうちに、
この球団が東京野球倶楽部っという名称になり、海外遠征し、国内遠征し。

『どうせだったら、他にも球団を作りアメリカのようにリーグ戦を!』
っと正力オーナーは考えて現在に至るのである。



でっあるから、この試合は巨人の初陣試合だけでなく、今現存するプロ野球球団にとっての初陣試合にもなるのです。

なんと言っても、この時来日した選手達は凄い人々ばかりでして、…スパイもいたけど…
(詳しく知りたい方は沢村栄治記念館すごい奴らがやってきたへ行かれるのをお勧め致します。)

興行的にも大大成功!


この成功があったからこそ今の日本のプロ野球人気があるっと言っても過言ではないのです。
正力松太郎は偉い!!!
お金の使い方を分かっている上、発想力も実行力も兼ね備えておられる!

お金の使い方を分かっていなくて、発想力が貧弱な某オーナーとはエライ違いである!!








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